ご存知の方も多いと思いますが、比叡山には延暦寺という寺院の建物があるわけではありません。「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称です。延暦7年(788年)に最澄(伝教大師)が一乗止観院という草庵を建てたのが始まりで、天台宗の本山です。日本史や倫理の教科書にも平安仏教として登場しますが、最澄-伝教大師-比叡山-天台宗-台密、そして空海-弘法大師-高野山ー真言宗-東密というセットで憶えている人も多いと思います。
私が比叡山と聞いて次に思い出すのは織田信長による「比叡山焼き討ち」です。延暦寺はその大きな政治力と武力から常に武士勢力との争いが絶えませんでした。その最たる事件が織田信長による「比叡山焼き討ち」で、4000名の僧兵を擁する比叡山の腐敗した仏教政が天下統一の妨げになると1571年に延暦寺を取り囲み焼き討ちしたという事件です。この焼き討ちで女性や子どもを含めて3千名から4千名が殺戮されたとする資料もあります。
織田信長はとても人気のある武将ですが、作家の藤沢周平さんは信長による殺戮の歴史(長島一向一揆では投降した一向一揆の男女二万人を城に押し込めて柵で外に逃げないようにして焼き殺したり、荒木一族の処分では郎党や侍女など五百人の奉公人を四軒の家に押し込めて焼き殺したといいます。)から「信長ぎらい」であると述べています。確かに武将から見れば戦国時代は華々しい時代だったかもしれませんが、いつの世も庶民にとっては戦乱はとんでもない恐怖の状況ですから藤沢さんの「信長ぎらい」もなるほどと思います。
今はたくさんの観光客で賑わう延暦寺にも、たくさんの人の命が奪われたという恐ろしい歴史があることをふと思い浮かべました。