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屋久島の小杉谷集落

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 縄文杉をめざしてトロッコ軌道を登っていく途中に小杉谷集落跡があります。小杉谷とは下屋久営林署小杉谷製品事業所の別名のことで、1923年(大正12年)に開設された原生林伐採の前線基地でした。標高は640メートル、年平均気温15度、最低気温零下6度、年間降水量7000ミリという厳しい自然の中、最盛期だった昭和35年当時は、133世帯540人が小杉谷で暮らしており、小学校・中学校各一校、公衆浴場一軒、商店四軒、理髪店一軒があったそうです。小・中学校の生徒数は最大147名にも上ったということです。
 屋久杉伐採の歴史は古く、1590年に豊臣秀吉が京都の方広寺大仏建立の際、島津家、種子島家が杉、檜などの巨木を用材として送り出しています。江戸時代に入り島津藩は1642年屋久島に代官を置き本格的な伐採事業を始めました。島津藩の伐採事業はおよそ200年間続きました。
 そして長い歴史を経て、需要量を満たしたことや自然保護運動の高まりの中で1970年(昭和45年)小杉谷は閉山し、小・中学校は閉校しました。今はその跡地だけが残っていますが、よくこんな山奥で多くの人が暮らしていたものだと感心します。ここで暮らしていた人々や小中学校に通っていた子どもたちの息吹が聞こえてきそうです。
 樹齢が1000年を超えないと屋久杉とは言わないそうです。人々が暮らした約50年は屋久杉にとってはほんの一瞬かもしれません。今は深い森の静寂と緑がそうした人々の営みを包みこんでいます。