| だ腺染色体 ebisu 生物 2012-10-30 13:04 友人に知らせる 4609 0 10.00 (投票数 1)投票する
アカムシユスリカのだ腺染色体(2n=6)
撮影 2012年10月29日 三浦 |
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| 日本橋電気街 ebisu 日本 2012-11-5 0:56 友人に知らせる 756 0 0.00 (投票数 0)投票する
日本橋電気街の夕方の風景です。 今宮高校から徒歩、約15分のところにあります。
撮影 2012.10.26 田中 |
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| トリニティー湾(ケアンズ)の海の色 ebisu 外国 2012-11-23 15:38 友人に知らせる 997 0 10.00 (投票数 1)投票する
ケアンズはトリニティー湾に面しています。 海の色は、現地の人の言葉でbrownです。茶色よりやや薄いカーキ色に近い色をしています。 透明なブルーの色を期待していると、少々がっかりします。
でも心配無用、Green島に渡るために少し沖合にでれば、海の色は正に期待通りの 「かぎりなく透明に近いブルー」です。海がめが横でのんびり泳いでいました。
海の色のせいでケアンズの海岸で海水浴をする人は見かけません。 浜にある人工のプール(「ラグーン」無料更衣室完備)で泳いでいます。 撮影 2012年10月14日 大西 |
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| 四天王寺 ebisu 日本史 2012-11-24 22:01 友人に知らせる 1117 0 8.00 (投票数 1)投票する
聖徳太子創建といわれる、四天王寺です。 昭和20年の空襲で焼失しましたが、昭和38年に鉄筋コンクリートで、当時の様式のように再建されました。 伽藍配置は中門、塔、金堂、講堂を一直線に配置する「四天王寺式伽藍配置」です。
撮影:2009.10.23 地理巡検 田中 |
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| 東大寺南大門 ebisu 日本史 2012-11-24 22:28 友人に知らせる 3013 0 10.00 (投票数 1)投票する
源平争乱によって焼失した東大寺を、重源はその資金を広く寄付にあおいで各地をまわる勧進上人となって、宋人陳和卿の協力を得て再建にあたりました。そのとき採用されたのが、大仏様の建築様式で、大陸的な雄大さ、豪放な力強さを特色するもので、この東大寺南大門が代表的遺構です。(『詳説日本史』P109)
門の真下から見上げると、直接屋根の裏側が見えます。
撮影 2010年3月28日、奈良市 田中 |
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| 四天王寺・中門 ebisu 日本史 2012-11-25 7:11 友人に知らせる 1802 0 8.00 (投票数 1)投票する
中門の後ろに塔が立っています。「四天王寺式伽藍配置」の一部が確認できます。ここからの眺めより側面からの眺めの方がきれいで、海から眺めた姿を重視した伽藍配置です。
撮影 2009年10月23日 田中 |
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| 転害門 ebisu 日本史 2012-12-13 0:53 友人に知らせる 1161 0 8.50 (投票数 2)投票する
転害門(てがいもん)は、1180(治承 4)の平重衡の兵火や1567(永禄10)年の、三好・松永の戦いの2回の兵火を生き延び、天平の姿のまま現在に伝わっています。
奈良県庁横の国道369号線をしばらく北に行けば、右側に見えます。 国宝に指定されています。
撮影 2006年5月9日 奈良市 田中
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| 鳴き砂 ebisu 岩石標本 2013-1-16 18:13 友人に知らせる 1493 0 10.00 (投票数 1)投票する
琴引浜の海岸は「鳴き砂」として知られています。
地学選択生の鳴き砂紹介の動画をyoutube にアップ しています。 鳴き砂の動画を見る <= クリックしてください
採集地:京都府網野町琴引浜 松本静雄 |
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| てんのじ村の説明 ebisu 地域教材 2013-3-4 9:06 友人に知らせる 1355 0 8.50 (投票数 2)投票する
上方演芸発祥之地と言われる「てんのじ村記念碑」にある石板です。石版には下記の文字が刻まれています。 仏法最初、 荒陵山四天王寺に由来する天王寺村は、 また文化芸能淵叢の地でもあった。 往昔、 北は生国魂より南は天神森紹鴎社に及ぶ広大な地域を占めていたといわれる。現在の通称「てんのじ村」は、 まさにその中心の地に当たる。 昭和二十年の戦災に奇しくも大被害を免れて芸能人の大半はこの地に結集、 爾後、 上方庶民の文化、演芸の再建、飛躍の拠点となった。 今回、都市計画による地区改変に際し、縁故芸能人、地元有志ほか江湖の賛助を得てここに記念の碑を建立し事蹟を顕彰するとともに向後のより大なる発展を庶幾せんとするものである。 昭五十二年十一月八日 吉田留三郎 識
<注> 正面にはフェンスがあり、写真撮影は難しいので、横から撮影して石版の部分を切り出して変形した画像です。
撮影 2013年3月2日 田中清隆 |
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| 「てんのじ村」 記念碑 上方演芸発祥之地 ebisu 地域教材 2013-3-4 14:01 友人に知らせる 2602 0 8.00 (投票数 1)投票する
近代漫才の父と呼ばれる漫才作家・秋田實(本名:林広次)は大正9年に旧制今宮中学の13期生として入学しました。大阪高校をへて東京帝国大学に進学後、昭和6年、横山エンタツと出会い、寄席の世界に深く関わりました。大阪へ戻った秋田は吉本興業に入り、文芸部をつくり、舞台用の台本、執筆、映画に八面六臂の活躍をしました。 戦後、漫才「MZ研進会」をつくり指導と働きの場を探されました。その後、民法ラジオ、テレビ局の開局に伴い「漫才学校:「夫婦善哉」他の番組づくり、昭和31年には上方演芸株式会社(後、現松竹芸能と合併)、「上方漫才大賞」実行委員長、「上方お笑い大賞」制定に加わる等、関西のお笑い界を牽引する働きをされました。 上記の説明は『今宮史記−百年の歩み−』平成20年5月31日発行の今宮人物伝「近代漫才の父・秋田實 中13期林 広次」(漫才作家 大池 晶)を参考にしました。
この石碑は、昭和52年に建立されました。秋田實はこの年に亡くなられました。JR新今宮駅から、JR天王寺駅に歩くと、阪神高速道路の高架を抜けた、阿倍野入口の東に立っています。この辺りは、空襲を免れ、おおくの芸人の住まいがあった「てんのじ村」と呼ばれた地域でした。石碑の背後に当時の風情を残す建物が少し残っています。
撮影 2013年3月4日 田中清隆 |
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