| 落合上渡船 imamiya 地域教材 2012-11-4 23:45 友人に知らせる 1020 0 0.00 (投票数 0)投票する
大正区には7つの渡船があります。 この渡船で西成区北津守へ移動します。
この渡船で、大正区から自転車で通学する生徒もいます。
撮影 2012.10.28 田中 |
|
| 落合下渡船 imamiya 地域教材 2012-11-4 23:47 友人に知らせる 1047 0 0.00 (投票数 0)投票する
大正区には渡船が7つあります。 西成区と大正区を結んでいます。
撮影 2012.10.28 田中 |
|
| 昭和山山頂 imamiya 地域教材 2012-11-5 0:01 友人に知らせる 1060 0 0.00 (投票数 0)投票する
昭和山(標高33m)地下鉄工事や産廃の処理場の跡地にできた山です。この写真は山頂付近のものです。
撮影 2012.10.28 田中 |
|
| 一ノ谷 imamiya 日本史 2013-1-14 14:13 友人に知らせる 1082 0 9.00 (投票数 1)投票する
一ノ谷の戦いは、平安時代の末期の1184(寿永3)年2月7日に須磨で行われた源平の戦い。義経軍は勢力を盛り返し、須磨の海岸に布陣する平家軍を、背後の山から馬で駆け下りる奇襲で征しました。不意を突かれた平家軍の多くは討ち取られました。 写真は須磨浦山上遊園地へのロープウェイから撮影したものです。この後、逆落としルートを下山しました。細い道がありましたが、急斜面であることを実感しました。
撮影 2012年9月15日 兵庫県須磨区 田中 |
|
| 敦盛塚 その2 imamiya 日本史 2013-1-14 21:59 友人に知らせる 1104 0 8.00 (投票数 1)投票する
須磨寺の源平の庭に馬上で熊谷直実と平敦盛の戦う像があります。また本殿の右には敦盛公首洗い池があり、さらに奥に進んだところに敦盛公墓所の首塚があります。
<正面右の説明の全文> 謡曲「敦盛」と敦盛首塚 謡曲「敦盛」は、戦乱の巷では敵であった者同士が、極楽浄土で共に成仏する運命になった事を主軸にして作曲された修羅物である。 一の谷の戦いで少年敦盛を討った熊谷直実は、無常を感じ出家して蓮生と改め、菩提の為古戦場を尋ねると、敦盛の霊は草刈男の姿で現れて迎える。蓮生はひたすら回向を続けまどろむ夢の中に、花やかな姿で現れた敦盛が、一門没落の運命の中にも忘れかねる歓楽の日々があった事や、戦いの有様を物語り、敵蓮生の日々の回向に感謝し、共に極楽往生の出来ることを喜びつつ消え去るのである。 直実は、義経の首実験の後、許しを得て遺品「馬・甲冑・弓矢・青葉の笛」と共に、戦死の有様を書き添えて父経盛に送った。懇ろに弔われた「敦盛首塚」は今も人は絶えない。謡曲史跡保存会
撮影 2012年9月15日 兵庫県神戸市須磨区 田中 |
|
| 小御所 imamiya 日本史 2012-11-25 18:31 友人に知らせる 1200 0 9.00 (投票数 1)投票する
薩長と徳川慶喜の息詰まる攻防の舞台となった「小御所」です。思っていたより、大きな建物です。 「詳説日本史」(山川出版)では、ここを舞台とした小御所会議に関して次のような簡潔な記述で紹介しています。(教科書原文は薩摩の薩は旧字です。一部省略しています)
「徳川慶喜は、10月14日、大政奉還の上表を朝廷に提出した。 同じ10月14日には,朝廷内の岩倉具視らと結んだ薩摩長両藩が、討幕の密勅を手に入れていた。大政奉還の上表で機先を制せられた倒幕派は,12月9日、薩摩藩などの武力を背景に朝廷でクーデタを決行し、王政復古の大号令を発して、天皇を中心とする新政府を樹立、江戸幕府の 260年以上にわたる歴史に終止符が打たれた。新政府は、将軍はもちろん、朝廷の摂政・関白も廃止して、天皇のもとに新たに総裁・議定・参与の三職をおき、参与に薩摩藩やそのほか有力諸藩を代表する藩士を入れた雄藩連合の形をとった。 さらに同日夜の三職による小御所会議で、徳川慶喜に内大臣の辞退と朝廷への領地の一部返上(辞官納地)を命じる処分が決定されたため、反発した慶喜は京都から大坂城に引きあげ、新政府と軍事的に対決することになった。」 大政奉還は、慶喜の意志であったが、辞官納地は承伏できないとして、鳥羽・伏見の戦いの直接の原因になりました。
撮影 2012.4.4 京都市 田中 |
|
| 敦盛塚 その1 imamiya 日本史 2013-1-14 21:59 友人に知らせる 1226 0 8.50 (投票数 2)投票する
山陽電鉄須磨浦公園駅から西へ200メートルほどの国道2号線に面したところに、1184年、平敦盛が源氏方の熊谷直実によって討たれ、それを供養するために建立されたと言われる敦盛塚があります。 この周辺は、1184年の一ノ谷の合戦の地で、敦盛は16歳(17歳という記録もある、平清盛の弟である平経盛の子)であり、熊谷直実が自分の子どもと同年代の敦盛を討つことに躊躇しました。 敦盛は笛の名手で、また、謡曲の『敦盛』「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。・・」でも知られています。 この塚は、胴塚であり、須磨寺の中に、首塚があります
撮影 2012年9月15日 兵庫県神戸市須磨区 田中 |
|
| ミラーミラーの滝 imamiya 外国 2012-10-29 13:09 友人に知らせる 1363 0 10.00 (投票数 1)投票する
ケアンズの南のアサートン高原(地元ではTable lands)にある滝です。
今宮高校オーストラリア研修の期間中に訪れました。 ケアンズよりも5度ほど気温が低く、なだらかに屈曲する地面に牛が放牧される独特の景観の場所です。いくつかの滝のなかで、もっとも美しい滝でした。
撮影日 2012年3月26日 |
|
| バリアーフリー imamiya 授業風景 2013-1-3 23:47 友人に知らせる 1363 0 0.00 (投票数 0)投票する
車いすの体験をしています。
撮影 2010年12月3日 |
|
| 石敢當 imamiya 地域教材 2012-11-4 23:53 友人に知らせる 1366 0 8.00 (投票数 1)投票する
大正区には沖縄の文化が息づいています。 石敢當は魔除けで、悪い気は直進することから、 この石敢當で防いでいます。 沖縄の家屋の入り口付近の壁も、同じようは悪き気を防ぐ目的があると聞きました。
撮影2012.10.28 大阪市大正区 田中 |
|