| 頼朝の墓 ebisu 2012-2-13 1:53 友人に知らせる 1492 0 10.00 (投票数 1)投票する
鶴岡八幡宮の北東、徒歩約10分のところにある源頼朝の墓です。「吾妻鏡」頼朝(1147-1199)は53才で、馬から落馬して亡くなったとされています。
先日(2月11日)この頼朝の墓が壊されたとのニュースが報道されました。壊した理由は黙秘のため不明とのことです。
撮影 2011年8月 田中清隆 |
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| 伏見城金箔瓦 ebisu 2015-6-16 9:54 友人に知らせる 2038 0 9.00 (投票数 2)投票する
この瓦は、豊臣秀吉が築城し、徳川家康が改修して所有していた伏見城の遺物です。 関ヶ原の戦いで徳川家康の留守中の伏見城に西軍方(石田三成方)の小早川秀秋・島津義弘の連合軍が攻撃して城が焼失した時のものかも知れません。
豊臣政権では城の築城の際には瓦に金箔をつけていました。この瓦にも少し金箔が残っています。
この瓦は、昔に発掘されたものを本校に寄贈してもらったものです。
追記 今宮高校には、寄贈された古代からの瓦が保存されています。この伏見城の金箔瓦は、本校の畠井教諭が洗浄中に発見、上記の説明文をつけて、社会科教室のガラスロッカーに展示しているものです。朱も残っています。
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| 箸墓 ebisu 2012-6-4 23:23 友人に知らせる 1087 0 10.00 (投票数 5)投票する
奈良県桜井市にある箸墓古墳です。纏向遺跡の近くにあり、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)の墓といわれています。卑弥呼の墓かどうかは不明です。
左に三輪山(標高467m)が見えます。
撮影日 2012年5月4日 |
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| 敦盛塚 その2 imamiya 2013-1-14 21:59 友人に知らせる 1146 0 8.00 (投票数 1)投票する
須磨寺の源平の庭に馬上で熊谷直実と平敦盛の戦う像があります。また本殿の右には敦盛公首洗い池があり、さらに奥に進んだところに敦盛公墓所の首塚があります。
<正面右の説明の全文> 謡曲「敦盛」と敦盛首塚 謡曲「敦盛」は、戦乱の巷では敵であった者同士が、極楽浄土で共に成仏する運命になった事を主軸にして作曲された修羅物である。 一の谷の戦いで少年敦盛を討った熊谷直実は、無常を感じ出家して蓮生と改め、菩提の為古戦場を尋ねると、敦盛の霊は草刈男の姿で現れて迎える。蓮生はひたすら回向を続けまどろむ夢の中に、花やかな姿で現れた敦盛が、一門没落の運命の中にも忘れかねる歓楽の日々があった事や、戦いの有様を物語り、敵蓮生の日々の回向に感謝し、共に極楽往生の出来ることを喜びつつ消え去るのである。 直実は、義経の首実験の後、許しを得て遺品「馬・甲冑・弓矢・青葉の笛」と共に、戦死の有様を書き添えて父経盛に送った。懇ろに弔われた「敦盛首塚」は今も人は絶えない。謡曲史跡保存会
撮影 2012年9月15日 兵庫県神戸市須磨区 田中 |
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| 敦盛塚 その1 imamiya 2013-1-14 21:59 友人に知らせる 1262 0 8.50 (投票数 2)投票する
山陽電鉄須磨浦公園駅から西へ200メートルほどの国道2号線に面したところに、1184年、平敦盛が源氏方の熊谷直実によって討たれ、それを供養するために建立されたと言われる敦盛塚があります。 この周辺は、1184年の一ノ谷の合戦の地で、敦盛は16歳(17歳という記録もある、平清盛の弟である平経盛の子)であり、熊谷直実が自分の子どもと同年代の敦盛を討つことに躊躇しました。 敦盛は笛の名手で、また、謡曲の『敦盛』「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。・・」でも知られています。 この塚は、胴塚であり、須磨寺の中に、首塚があります
撮影 2012年9月15日 兵庫県神戸市須磨区 田中 |
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| 東大寺南大門 ebisu 2012-11-24 22:28 友人に知らせる 3059 0 10.00 (投票数 1)投票する
源平争乱によって焼失した東大寺を、重源はその資金を広く寄付にあおいで各地をまわる勧進上人となって、宋人陳和卿の協力を得て再建にあたりました。そのとき採用されたのが、大仏様の建築様式で、大陸的な雄大さ、豪放な力強さを特色するもので、この東大寺南大門が代表的遺構です。(『詳説日本史』P109)
門の真下から見上げると、直接屋根の裏側が見えます。
撮影 2010年3月28日、奈良市 田中 |
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| 唐古池の鐘楼 ebisu 2012-2-8 12:33 友人に知らせる 1192 0 10.00 (投票数 1)投票する
奈良県田原本町にある、唐古・鍵遺跡で発掘された、絵画土器の文様によって復元された鐘楼です。
撮影:2010年4月16日、田中 |
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| 転害門 ebisu 2012-12-13 0:53 友人に知らせる 1195 0 8.50 (投票数 2)投票する
転害門(てがいもん)は、1180(治承 4)の平重衡の兵火や1567(永禄10)年の、三好・松永の戦いの2回の兵火を生き延び、天平の姿のまま現在に伝わっています。
奈良県庁横の国道369号線をしばらく北に行けば、右側に見えます。 国宝に指定されています。
撮影 2006年5月9日 奈良市 田中
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| 鶴ヶ丘八幡宮 ebisu 2012-2-8 12:33 友人に知らせる 1573 0 8.50 (投票数 2)投票する
鎌倉にある鶴ヶ丘八幡宮です。大銀杏は風によって倒れ、残った幹から、あたらしい枝が伸びていました。
撮影:2010年8月22日 |
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| 談山神社 ebisu 2012-6-5 0:12 友人に知らせる 1179 0 8.00 (投票数 1)投票する
談山神社は、中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我氏の専横を阻止する相談をした場所です。この神社の裏山には、2人が蘇我入鹿を討つ相談をした場所である”談山”があります。神社の名前もここから名付けられました。 入鹿暗殺(乙巳の変)の舞台となった飛鳥板葺宮は、この神社を降りること、徒歩で約2時間のところにあります。事件は645(大化元)年6月12日におこりました。
撮影日 2012年5月4日 |
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