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小御所
小御所高ヒット
投稿者imamiyaimamiya さんの画像をもっと!   前回更新2012-11-25 18:31    友人に知らせる友人に知らせる
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薩長と徳川慶喜の息詰まる攻防の舞台となった「小御所」です。思っていたより、大きな建物です。
「詳説日本史」(山川出版)では、ここを舞台とした小御所会議に関して次のような簡潔な記述で紹介しています。(教科書原文は薩摩の薩は旧字です。一部省略しています)

「徳川慶喜は、10月14日、大政奉還の上表を朝廷に提出した。
 同じ10月14日には,朝廷内の岩倉具視らと結んだ薩摩長両藩が、討幕の密勅を手に入れていた。大政奉還の上表で機先を制せられた倒幕派は,12月9日、薩摩藩などの武力を背景に朝廷でクーデタを決行し、王政復古の大号令を発して、天皇を中心とする新政府を樹立、江戸幕府の 260年以上にわたる歴史に終止符が打たれた。新政府は、将軍はもちろん、朝廷の摂政・関白も廃止して、天皇のもとに新たに総裁・議定・参与の三職をおき、参与に薩摩藩やそのほか有力諸藩を代表する藩士を入れた雄藩連合の形をとった。
 さらに同日夜の三職による小御所会議で、徳川慶喜に内大臣の辞退と朝廷への領地の一部返上(辞官納地)を命じる処分が決定されたため、反発した慶喜は京都から大坂城に引きあげ、新政府と軍事的に対決することになった。」
 大政奉還は、慶喜の意志であったが、辞官納地は承伏できないとして、鳥羽・伏見の戦いの直接の原因になりました。

撮影 2012.4.4 京都市 田中

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